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~みんなのオーガニック~

【連載】世界農業遺産が紡ぐ、食・農・地域の未来 ~ 都市と農村をつなぐ “幸せな循環の一員に”

June 20, 2025
筆者:大和田順子
能登の白米千枚田
写真提供:石川県農林水産部里山振興室

一杯の白いごはんを口に含んだとき、ふと、初夏のまぶしい水田や、夕暮れに金色に染まる稲穂の景色を思い出すことはないでしょうか。

水田を動き回るミジンコ、朝露に光るクモの巣、秋空に舞う赤とんぼの群れ。それらは、私たちの「ごはん」と共にある風景であり、命と命がつながる静かな調べのようでもあります。

都市に暮らす私たちは、日々の食材の背景にある自然や生きもの、そしてそれらを育む人々の営みに、なかなか思いをはせることはありません。しかし、気候変動や生物多様性の喪失、農村の過疎化が進む現代において、私たちの食のあり方そのものが問われる時代に入っています。

そんな今だからこそ、ひとつの“導きの糸”となる制度があります。「世界農業遺産(GIAHS)」──自然と共に生きる地域の知恵と誇りを、未来に手渡すための世界的な取り組みです。

世界農業遺産(GIAHS)とは

2002年に国連食糧農業機関(FAO)によって始まりました。地域に根差した伝統的な農林水産業と、それを支える文化、景観、生物多様性の一体性を評価し、持続可能な農業システムとして認定します。日本では、2011年に「トキと共生する佐渡の里山」と「能登の里山里海」が初めて認定され、以後、「静岡の茶草場農法」や「みなべ・田辺の梅システム」など、全国15地域が登録されています。

これらの地域では、単に農作物を「つくる」のではなく、自然や森・農地・川・湖海などとの対話を重ねながら、長い年月をかけて循環の仕組みを紡いできました。

たとえば静岡県の茶草場農法では、茶畑の周囲に広がる草地から刈り取った草を畝間に敷き、土壌を豊かにし、保水力を高めています。同時に、草場には絶滅危惧種を含む多様な動植物が息づき、農と自然とが共鳴する美しい風景が広がっています。

静岡の茶畑と茶草場
写真提供:世界農業遺産「静岡の茶草場農法」推進協議会

こうした地域が私たちに届けてくれているのは、農産物という“物”だけではありません。清らかな水、肥沃な土、美しい景観、受け継がれてきた農耕儀礼や食文化──それはすべて、自然がもたらす「生態系サービス」と呼ばれているしくみを活かした人々の知恵の賜物です。この生態系サービスは、近年注目されている「SDGsウェディングケーキモデル」においても、社会や経済を支える土台として位置づけられています。人と自然が共に在ることが、持続可能な社会の前提条件であるという認識が、ようやく広まりつつあります。

日本政府もまた、この考え方をもとに政策の舵を切り始めています。「みどりの食料システム戦略」では、2050年までに有機農業の農地面積を全体の25%に拡大するという、未来を見据えた目標が掲げられました。有機農業とは、化学合成された肥料や農薬を用いず、生態系の健全性と土壌の命を守る農法です。それは、環境と向き合う“責任ある選択”として、私たち消費者の意識にも静かに浸透してきています。

そして、最近よく耳にする「ネイチャーポジティブ(Nature Positive)」という言葉。これは、人間活動によって失われた自然を回復させ、再び生きものが息づく環境へと社会全体を転換していこうという、未来志向の概念です。実は、世界農業遺産の地域は、こうした価値観をすでに何百年も前から実践してきた場所でもあります。400年、なかには1000年にもわたり、地域の人々により森林や草地、里山が手入れされ、人々の暮らしとともに大切に守られてきたのです。

2022年、佐渡市は「ネイチャーポジティブ宣言」を行い、2024年には宮城県大崎市が「ネイチャーポジティブ定量化事業」で「SDGs未来都市」のモデル事業に選定されました。名称は新しくとも、その根底に流れる哲学は、すでに地域の大地と人々の心に根づいています。

かつて私が訪れた、ドイツのニュルンベルクで開催される世界最大のオーガニック展示会「BIOFACH(ビオファ)」。10年ほど前、その会場に溢れていたのは、有機農業の未来を信じて語り合う人々の温かいまなざしでした。いま、この連載では、その精神を日本に重ね、世界農業遺産を導きの糸として、地域の人々の営みと風景から学び、私たちの暮らし・社会を見つめ直したいと願っています。

2025年2月にドイツで開催されたBIOFACHの様子。
写真提供:BIOFACH JAPAN事務局

一杯のごはん、一粒の梅干し。その奥に広がる農山漁村の音・香り・手触りに心を傾けてみませんか。時には、実際に地域を訪れてみる。農作業の手伝いを通じて、自然のリズムに触れてみる。私たちの毎日の食の選択が、農山漁村を支え、自然を支え、私たちの暮らしを支え、サステナブルな社会につながっていく。─そんな“幸せな循環”の一員となりませんか。


大和田順子さんプロフィール:

博士(事業構想学)、教育テック大学院大学 教授/地域力創造アドバイザー

東急グループ、イオングループ等にてソーシャルマーケティングの実務を経て、2002年環境と健康を大切にするライフスタイル「LOHAS(ロハス)」を日本に紹介、普及に尽力。近年は「SDGs未来都市」、世界農業遺産認定地域の活性化、地域イノベーションなどに関する実践・調査・研究を行う。

2014年~2020年、農林水産省「世界農業遺産等専門家会議」委員。2022年3月、総務省「令和3年度ふるさとづくり大賞」個人表彰部門で総務大臣賞受賞。2021~2023年度、同志社大学総合政策科学研究科ソーシャル・イノベーションコース教授。2024年10月~立命館大学日本バイオ炭研究センター客員教授。2025年4月、教育テック大学院開学、教育経営コース教授。

「世界農業遺産を巡るシリーズツアー」監修、同行。BIOFACH JAPAN 実行委員

主な著書:『ロハスビジネス』(共著、2008年、朝日新書)、『アグリ・コミュニティビジネス』(単著、2011年、学芸出版社)、『SDGsを活かす地域づくり』(共著、2022年、晃洋書房)他。

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